2008.4.3 |
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急に思い立ち中山道を石山から守山宿まで単独で歩いた。 江戸時代に制定された街道に中山道・東海道・甲州街道・奥州街道・日光街道の5街道がある。 中山道は東海道に次ぐ主要街道であった。江戸の日本橋から出発し、草津宿で東海道に合流し、京都の三条大橋に至る。 江戸から草津までは129里あり、69箇所の宿場が置かれた。太平洋側を行く東海道よりも40km以上長い。 |
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9:20 | 自宅をスタート。 駅への道で今年初めてツバメを見た。巣作りのため一生懸命飛び交っていた。いよいよ春だなあ。 |
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11:20 11:45 |
JR石山駅から歩き始める。 駅の交番で瀬田の唐橋への道を尋ねて、左へ進み2つ目の信号を右へ行くと国道422号線。 国道を行くとすぐに瀬田の唐橋。 琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川にかかる瀬田の唐橋は、 近江八景の一つ「瀬田の夕照(せきしょう)」として有名な橋で、古くは日本書紀にも登場するほどです。 瀬田の唐橋は、東国から京に入る関所の役割を果たし、軍事・交通の要衝でもあったため、 「唐橋を制する者は天下を制す」とまでいわれた。
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12:00 | 唐橋から500mほどで建部大社。 建部大社の周辺一帯は地名が「神領」。昔はこのあたりはこの神社の領地だったのだろうと勝手に解釈する。 この社は、近江一の宮といわれ、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。 祭神は、日本武尊。 古くから歴代朝廷の尊信が驚く、また武将たちの崇敬も深く集めました。 特に平安時代末、源頼朝が平家に捕らえられて伊豆に流される途中、建部大社に立ち寄って源氏再興の祈願をし、 見事にその願が叶って以来は、武運来運の神として信仰を集めました。
本殿でお参りして地図を確認しないで勝手にこっちだろうと歩いていったのが間違いだった。 何となくおかしいなあ、と思えど尋ねる人が見つからないままドンドン行った。 ようやく一人のウオーカーが見つかり道を尋ねると、「これは違うよ、これは信楽のほうへ行くよ」と。 来た道をバックして時間の浪費を悔しがる。 ところでこのあたりでは「中山道」で道を尋ねてもダメ。「東海道」で尋ねないと通じない。 江戸から草津までは中山道でも、草津からは東海道と合流して「東海道」になる。 |
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12:30 | 高橋川沿いの公園で昼飯。 ここは中山道(東海道)を歩く目印があって分かりやすい。
食後の次の目標は一里山、月の輪池、弁天池。 |
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13:25 | 市道と交差する一里山信号の下に一里塚跡があった。 説明板には 【一里塚跡】 一里塚は、徳川幕府が旅人の目じるしに江戸の日本橋を基点として東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。 ここにあった一里塚は東海道の大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられた塚でしたが、 惜しくも明治末期に取り除かれました。 その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点にあたります。 現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。 と記載あり。
ここで一人の女性とチョッと話した。彼女も中山道を訪ね歩いているらしい。 ほかにもチラホラと中山道を探訪していると思われるウオーカーがいた。 |
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13:35 | 月の輪池。立場跡の碑があった。
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13:50 | 狼川、弁天池。 弁天池には名前の通り弁天さんが祀られていた。 |
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14:15 | 野路、萩の玉川。 【古き宿駅 野路駅の名残り】 野路の地名はすでに平安時代末期に見え、「平家物語」をはじめ、多くの紀行文にもその名を見せている。 鎌倉時代には、源頼朝が上洛に際し、野路の地での逗留が見えるなど、宿駅として武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝として重視されていた。 さらに、ここ野路の地に、十禅寺川と東海道が交わるあたりには、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に読まれた名勝がある。 「千載和歌集」の源俊頼の歌に あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり と詠まれた野路の玉川である。 萩の名勝として近世には、「近江名所図会」や歌川広重の浮世絵にも紹介されている。 しかしこの野路も、草津が宿駅としてクローズアップされてくるとともに交通上の位置は次第に低下していくのである。
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15:35 | ズーッと一本道を歩いていく。 途中、ある一軒の遠藤という家の兵越しに「清宗塚」の文字が見えたので、お庭に入らせてもらうと平清宗の塚があった。 【平清宗(1170〜1185)】 平安後期の公卿、平宗盛の長男、母は兵部権大輔平時宗の娘。 後白河上皇の寵愛を受け、3歳で元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。 文治元年(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、安徳天皇(8才)は入水。 平氏の総大将宗盛、長男清宗等を捕虜とし、遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の行動を心よしとせず、 鎌倉に入れず追い返す。 仕方なく京都に登る途中、野洲篠原にて宗盛卿の首をはね、本地において清宗(17才)の首をはねる。 「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々銅像として保存供養しているものである。
個人の家で代々この塚を維持管理しているのだ。大変だ。 |
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14:40 | 上北池公園、野路一里塚跡。 東屋が休憩所になっている。ここでも学生の中山道ウオーカーが通りかかった。 中山道を歩いている人が結構いることにチョッと驚き。 |
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15:00 | 草津川、矢倉橋を過ぎるといよいよ草津宿。 ここは東海道と中山道の合流地点であり、その当時はずいぶん賑わったらしい。
町中には街道交流館があり、町上げて町おこしに努めている。4月28〜29日には「宿場祭り」があるようだ。 町には草津川が流れているが宿場を過ぎて町から離れるところで川は天井川になっている。 町の家の天井より上を流れているので「天井川」。 |
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16:10 16:30 |
天井川を過ぎJRの線路の下をくぐりしばらくすると、栗東市に入る。 大宝神社。
大宝神社の鳥居から左側に公園があり、そこには芭蕉の句碑があった。 「へそむらの まだ麦青し はるのくれ」 はせを(芭蕉のこと) |
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16:50 17:10 |
栗東市の中山道はすぐ終わり、守山宿に入る。 一里塚があった。 今宿の一里塚という。滋賀県で唯一残された一里塚という。
守山宿に入ったのはもう5時を過ぎていて、町屋ふれあい館とかあったが遅いので本日はここまでと帰途に着いた。 天気に恵まれ気持ちの良い一日であった。 |
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本日の総歩行数:36,526歩。 |