2006.11.22 |
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法隆寺主催で標記ウォークに参加した。 | |||||||
8:40 |
少し遅れて法隆寺南大門に着くともうすでに団体はスタートしてしまっていた。 受付では本日の参加費1000円プラス弁当代1000円を支払い、受付の人に謝り追いかける。
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8:50 |
上宮遺跡公園でみんなに追いつく。 上宮遺跡公園で元帝塚山大教授「岩本次郎」氏の話を聞く。 「本日のコースは聖徳太子が住んでいた斑鳩から飛鳥小懇田宮まで通うのに使ったとされる道をたどる」とのこと。 要するに聖徳太子の毎日の出勤の通勤コースだ。 愛馬黒駒に乗り、侍者調子麿(ちょうしまろ)を従え通ったという。 今日の参加者は総勢約150名でそれを3班に分けワタシは2班とのこと。 先頭は御輿に乗った太子像。
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9:40 |
飽波神社(安堵町)。 ここは聖徳太子の「飽波の宮跡」と伝わる。
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10:10 |
油掛地蔵。
聖徳太子の筋違い道沿いに「油掛地蔵」が格子のお堂の中に安置されています。 1523年(大永3年)造立で、舟型光背のある高さ約61センチ(台座とも)の地蔵立像で、 泥田の中に埋もれていたのを引き上げて、ここにお祀りしています。 クサ(できもの)ができている子供の母親がこのお地蔵さんにお祈りをして油を掛けたら、 クサが治ったと云われており、 願をかける時には油を掛ける習わし(燃灯供養)があることと、 当時から、この付近に水害が多いため、油を掛けて水を弾くようにと云うことから、 「油掛地蔵」と呼ばれています。 ウォーカーの隊列は3班に分けられ、班単位がまとまって旗を持った先頭の若いお寺さんについて行く。 お寺さんには黄色いウインドブレーカーを着たスタッフが数人づつ付いて補助することになっている。 聞いたところスタッフは全部で25人付いていると。 また、道路の信号や横断の交通整理には警備保障が8人雇われていて彼らが赤と白の旗で誘導してくれる。 彼らにも話を聞いたら「それはそれは大変です。皆さんを誘導したらまた先頭まで走っていって次の誘導をしなければなりません。 マラソンしているよりきついです・・・。」と。 参加費1000円の有料ハイクだからできること・・・?やり方・方法は勉強になる。
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11:15 |
杵築神社(三宅町屏風)。 ここはその昔太子が休息したとき、里人が屏風を立てて接待したとの伝説から「三宅町屏風」と町名まで残っている。 今日も町長はじめ町の人から歓迎の言葉や踊り・赤米のおかゆ等々での大接待。 ここで昼食。 ふとそばを見るとすぐ近くに大阪歩け歩け連合の吉田保彦夫妻がいるではないか!世間は狭い!
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12:10 |
昼食後杵築神社のすぐそばには約千四百年前、聖徳太子が斑鳩宮から飛鳥宮へ通う際、 腰を掛けて休まれたという「腰掛石」がある。
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13:50 | 多神社(田原本町)。 ここからバスで橿原まちなみ交流センターへ。こんな移動も参加費を徴収しているからこそ・・・。 |
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14:35 | まちなみ交流センター(橿原市)。 ここから午後の部のウォークで延々と歩く。途中からお腹がチクチク・チクチク痛くなりだす。たまらない。 犯人は・・・?心当たりは昨日のパーティー食か?今日の奈交フーズの昼弁当か? |
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16:00 | 甘樫の丘が見える「小懇田宮跡」で休憩。 | ||||||
16:25 |
終点・橘寺。 入山料350円、主催側負担。
この橘とは日本書紀によると田道間守(たじまもり)が垂仁天皇の勅命を受けて不老長寿の薬を求め、 海を渡り十年後にある種を持ち帰った。 しかし、その時すでに天皇は亡くなっていた。 しかたなく、その種をこの地にまくと芽が出たのが橘(みかんの原種)であったことから、以来この地を橘と呼ぶようになった。 そしてここに橘の宮という欽明天皇の別宮が建てられ、太子はここで生まれ子供の頃を過ごした。 聖徳太子誕生の地に太子自身が創建とされる橘寺。 また、バスで橿原神宮前駅まで送ってもらい解散。 本日のコース、聖徳太子の命日である2月22日を「太子の日」として 毎年11月22日と2月22日に「太子をたずねる集い」を催すとのこと。 ルートもいくつも揃えているとかで興味のある方は来年2月22日に参加されては・・・。 |
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18:000 | 帰着。 | ||||||
本日の総歩行数:34,396歩、ドアToドアの総歩行距離:約24Km。 |