2012.4.27(金)    市尾・宮山古墳 & 国見山  

今日はお久しぶりに中村氏のお誘いで御所方面のウオーキング。
メンバーは中村・井上・岩永・大藤・岡田・高垣・払山・前田・南・清水の10名。

9:10 大和西大寺駅に集合して、・・・橿原神宮前駅乗換え、・・・市尾駅着。
10:20
 市尾駅スタート。

ここは高取町にある無人駅。

近鉄市尾駅
10:25
 駅から北方向へ歩いてすぐ市尾墓山古墳。

こんもりした小山だ。
このあたりに君臨した豪族のお墓だという。

市尾墓山古墳

そのあと、遠くに二上山、そして葛城山を望みながらぶらぶら歩くと

遠方右端が二上山、左端が葛城山
10:44
天満神社。 
ここには遥拝所があった、一体誰を拝むのかな?

天満神社 

遥拝所

神社の奥には市尾宮塚古墳。

市尾宮塚古墳 

石棺内部
11:11
 宮塚古墳から町中を歩くと、三光丸クスリ資料館。

ここ、高取町は和漢薬の町として有名だ。

月~金の平日は無料で館内を見学させてくれる。

三光丸クスリ資料館 
11:37
クスリ資料館には寄らずに進み、目印の常夜灯の角を左折すると国見神社に至る。

国見神社 

ここにも 皇霊遥拝所 

ここにも遥拝所があった。
先の天満神社にあった遥拝所で誰を拝むのかな? と思っていたがようやく分かった。 神武天皇以降の皇霊を拝むのだ。

12:00
 国見山(229m)に着いた。 ここで昼食。
昼食には女性群から味噌汁の差し入れ、ほかみんなからいろんなおやつを貰う。

山頂には写真の石碑に「嗛間(ほうま)の丘」とある。 
横には「神武天皇聖跡の地」とあり、裏側には「皇紀2600年」とあった。

皇紀2600年は西暦では1940年のことであり、その頃大東亜戦争を前にして国威宣揚の一環でこれを建てたものと想像する。

神武天皇はここに登り国見をし、「なんてすばらしい国を得たものだろう。狭いとはいえ、蜻蛉(あきづ=トンボ)の臀呫(となめ=交尾)のようだ」と感嘆したという。
それ以後大和を「
秋津洲(あきつしま)」と呼ぶようになったという。

国見山 山頂(229m)
13:51
昼食後国見山を下り、掖上鑑子塚古墳の看板を目にし、田んぼの横の道を進むと日本武尊の白鳥陵が目に入る。
写真の小山を半周すると、陵の正面に着く。

日本武尊 白鳥陵

日本武尊 白鳥陵 正面
<白鳥伝説>

 日本武尊は、父の景行天皇から、朝廷に服従しない熊襲・出雲などを征討するように命じられ、軍勢もないまま征討に赴き西国を平定し、やっとの思いで大和へ帰ってくるが、休む暇もなく父から東国の蝦夷を征討せよと命じられる。

 幾多の苦難のすえ、東国を征討するが、その帰る道中、伊吹山の神との戦いに破れ、傷を負いながらも日本武尊は大和へ帰ろうとする。
 能褒野(のぼの)(亀山市)に辿り着いた時、ついに力尽きその地で死んでしまう。

 死に臨んで日本武尊は、大和への思いを、「大和は国のまほろばたたなづく青垣山こもれる大和し美し」と詠んでいるが、能褒野に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、この琴弾原を経て、旧市邑(ふるいちむら)(羽曳野市)に降り立ち、その後何処ともなく天高く飛び去ったと古事記・日本書紀は伝えているという。

で、白鳥陵が三重県亀山・大阪羽曳野そしてここ奈良の御所の三箇所にあるのだ。

全員集合 

陵の前のシャガが満開
15:00
白鳥陵から條ウル神古墳を横手に見て生蓮寺を素通りして、桜田池公園を過ぎて八幡神社・宮山古墳。

生蓮寺 

桜田池公園

八幡神社

ここにも神武天皇遥拝所

八幡神社の横から宮山古墳へ登れる。

ここから宮山古墳へ登る

古墳頂上

古墳から降りて休憩していたら、これからバスに乗って帰るという。
バスが来るまで4~50分ある、歩いても近鉄御所駅までそれくらいで行けるというので一人で歩くことにした。
15:18
~16:11
 みんなと別れて進んだが、どうも道を間違えたらしく気がついたら鴻池会の老人ホームのそばまで来てしまった。

中村リーダーにケータイで連絡、「合流できないかもしれないが気にしてくれるな」と。
結局、30分ほど時間のロス。

このあたり、京奈和自動車道の建設中 。

自動車道 建設中
16:11
 近鉄御所駅に着いたら、中村・高垣氏がバスから降りてきた。

その他の7名はバスから降りずにそのまま八木駅まで行ったという。

ゴール近鉄御所駅
17:30
自宅帰着。 暑いほどの好天に恵まれケッコーな一日でした。 中村リーダーありがとうございました。

今日の疑問、このあたり御所(ごせ)というがなぜ「御所(ごしょ)」という字が当てられているか?
「天皇がいた」ことに関係あるか?
本日のドアtoドアの総歩行数:32,071歩。