遊歩のメンバーと歩く伊勢本街道、今回はその2回目。 |
8:30 |
生駒駅集合。
八木駅からバスで前回のゴール高井の驛まで移動。 バスの乗客は総員38名。 |
10:30 |
高井の驛には関所が置かれていたとされ、仏隆寺や室生寺への分岐点でもあります。
高井の驛からスタート。仏隆寺方面へ進む。 そしてすぐに伊勢本街道へ。
仏隆寺方面へ |
伊勢本街道へ |
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10:55 |
高井の千本杉。
オモテスギといわれる吉野杉で、根幹は16本の杉が集まって一株のようになっており、根周り35mに及ぶ巨木です。
樹齢は500〜800年という。
また、千本杉の株元には古い井戸があり、杉が自然に水を集める作用を利用した日本最古の井戸杉ではないかと推定されています。
この杉は、空海が室生山へ登った際にこの場所で弁当を食べ、その箸を地にさしたところ生育したという逸話があり、
地元では霊木として、あがめられています。
千本杉
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杉井戸水 |
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11:30 |
諸木野関所跡。
諸木野関所碑 |
関所の説明板
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大和と伊勢とを結ぶ伊勢本街道には、多くの関所が設けられていました。
当町の伊勢本街道(角柄から諸木野石割り峠)は約12Kmあり、
その間だけにでも角柄関・萩原関(井足関)・壱名関・下司名関・大久保名関があります。
それぞれの荘園領主が経済政策のひとつとして関税(通行税)をとるために各所に関所を設けましたが、
このことが当時の旅人たちを悩ましたようです。・・・ ・・・
と、足元にサワガニが かわいいね |
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11:38 |
北海道の名付け親・松浦武四郎、嘉永6年ここを通る。
松浦武四郎、文化15年2月6日(1818年3月12日) -明治21年(1888年)2月10日は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家、浮世絵師。雅号は北海道人(ほっかいどうじん)。蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した。 |
松浦武四郎、ここを通る |
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11:39 |
諸木野弥三郎の墓。
榛原町諸木野には弓の名人、彼は松阪市の大河内城で織田軍と戦ったと言われています。 |
諸木野弥三郎の墓 |
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11:50 |
愛宕神社で昼食。
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12:51 |
石割峠。
伊勢本街道の最初の難関と言われた石割り峠は、腰を下ろす所もないほどの狭い切り通しです。
初瀬から徐々に高度が上がっているため、それほど高所にいる感覚はありませんが、峠の標高は695m。
生駒山(642m)より高いところを越えます。・・・ ・・・
峠を越えると室生に入ります。道幅が広くなった坂道を下っていくと右手に「右いせ/左原山道」と読める道標が建っています。 その右には宝暦3年(1753)10月吉日と刻まれています。 徳川将軍家重の頃で当時、伊勢参宮だけでなく、原山から室生寺へ参詣する人が多かったことが分かります。 道標から10m程先に右へ下る細い道が本街道です。
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13:24 |
しばらく周囲の緑、滝の水を楽しみながら進むと、「田口」に至る。
当地は伊勢の国と 大和の国を結ぶ伊勢本街道沿いの村であり、「田口の宿場」としてかつて多くの旅籠があった。
徳川吉宗が享保の改革を始めた頃(1700年代前半)菅野村(現御杖村)出身の行脚僧行悦が
各地を供養して回り多くの石碑「廻国供養碑」を残したとされている。・・・ ・・・ |
13:28 |
専明寺。
誰かが「これ寺かあ」というほど何もない、誰もいない。
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専明寺 |
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14:58 |
小休憩の後、山道を山粕峠へ進む。
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15:20 |
山粕宿へ下りてきた。
そして「めだか街道」を進む。 めだか街道には何件かの「めだか屋」さんがあり、最近生れためだかの世話をしていた。
山粕宿 |
めだか街道 |
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15:30 |
ゴールの山粕、バス停に到着した。 バス停前の商店でビール購入(形だけ)。
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15:30 |
バスは帰途に着く。 今日のウオーキングは台風一過で蒸し暑さもなく、快適な日和でした。 |
18:00 〜 19:35 |
生駒駅に着くと至極当然のように「シルバー」へ足は向く。
・ワインを何本あけるか「もう1本、もう1本、もう1本」と4本あけたか。 記録は更新されなかった。
その他の話題・・・年の差婚・・・誰が年の差が大きいか? |
シルバーにて |
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